第3話 映画の消えたシネマ通り

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七日町の梅月堂ビルから南東の方角に走る通りがあります。
その通りはシネマ通りという愛称で呼ばれていました。
かつては、の話なのですが。

こんな感じで、映画のフィルムをあしらったお洒落な飾りが町中にあります。↑
このシネマ通りですが、山形県民の唯一の娯楽(映画)の街として栄えていたようです。
ちなみにその時代、現在のメインストリートである七日町の通りは、卸問屋街として存在していました。
「昔はそれぐらいしか娯楽がなかったからねぇ〜」
なんて言うおじいちゃんがいっぱいいたので、山形市民だけでなく県全体の映画市場を支えていた、と言っても過言ではないでしょう。

ピーク時には山形市内に11もの映画館が存在したようです。
そんな映画の中心であった栄光のシネマ通り。
今の姿がこちら。↓

レトロな空気が残っています。
お店と映画館がひしめき合っているのですが・・・
シネマ通りに最後まで残っていた映画館が2館とも昨年のまでにその幕を閉じてしまったという。

手前の赤い壁の映画館、山形ミューズは昨年の9月30日に閉館。
奥のシネマ旭は一昨年の11月30日に閉館。
非常に残念なお知らせです。

閉館の理由には、建物の老朽化や、客足が遠のくといったようなものがあげられています。

このシネマ旭。
レトロで味のあるこの建物は、『表現主義』のデザインで建てられたものみたいです。
表現主義とは、20世紀初頭に生まれた芸術運動の流れを汲んでいて、人の感情を作品中に反映させて、現実を捻じ曲げて表現する傾向があります。(wikipediaより)

ニーチェの思想がものすごくフィーチャーされたようです。
退廃的な感じや、生活、社会への矛盾など、社会に反逆するのを目指した芸術と言ったらいいでしょうか。

表現主義の建築のことを言えば、その当時世界では、レンガ、鉄、ガラスの大量生産などが可能になり、新しい建築技術への可能性が広がり、その後のモダンな建築様式へ大きく影響を与えたそうです。

そんな表現主義建築はその当時の視覚芸術(舞台や映画)としての表現主義と深く結びつき、並行して成長していきました。
建築家が舞台や映画のセットを手がけていた、なんて例がたくさんあったようです。

20世紀の初頭といえば、世の中は日露戦争、第一次世界大戦、ソビエト連邦の成立など、まさに激動の時代。表現主義の真っ只中です。
シネマ旭の誕生もこの20世紀初頭の1917年(大正6年)。
山形県初の映画館の誕生でした。
1955年(昭和30年)にこの写真の姿に改装され、シネマ旭誕生当初の表現主義にのっとった建築の姿になのではないでしょうか。

山形市と共に歩んできたシネマ旭、90年の歴史に終止符を打ってしまいました。

「シネマ旭を一番何とかしてほしい」
という声もたくさん聞くことができました。
なんだか本当に切ない。

映画の消えたシネマ通り。
ここをまた映画で元気にしてあげたいです。

私も切実にそう思います。


なぜならば、


私は山形に来て一度も映画館に行ってないからです。
そう。映画に行くようなベタなデートすらしていないのです。
(ここにも切ない現実)
郊外型の大きなシネコンには車がないからいけない。
(肝心な男もいない)
となれば、自転車かバスで行ける七日町付近がちょうど良いのです。
昼過ぎに待ち合わせして、映画を一本見て、その後七日町でディナーでも。
そんなデートをしたっていいじゃないか!

そのためにも、復興を・・・。


■ADDRESS:
シネマ旭 山形県山形氏七日町4丁目8-42
MUZE  山形県山形市七日町3丁目3-41

地図(GoogleMapへリンクします)
シネマ旭

山形ミューズ(旧)

コメント(1)

はじめまして、山形へはよく行くほうだと思います。
ここの映画館の建物見たことがあります。
こうした建物の維持には費用も大変かもそれませんが、他の目的でテナントなどの入る使い方とかできないんですかね。素人の考えですが、、。

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